感情の役割ってなに?

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日常生活を送る上で、感情について深く考える機会って、もしかするとそんなに多くはないかもしれません。カウンセリングという仕事をしていると、感情とは何なのだろうとぐりぐりと考えることがあります。

相談にいらっしゃる方の中には、感情に飲み込まれて行動をコントロールすることが難しく感じたり、時には家族や友人、恋人などの周囲の人との関係にも良くない影響を与えてしまうこともあり、そのことでまた悩んでしまうということもあるようです。

私自身も子どもを育てる身。「心理師さんだから、子育てはプロだね。」と言われることもあります。確かに、知識が役に立ったな、と思うことも多いのですが、イライラしないで子どもに優しく接することができれば何て良いだろうと思うことが本当にたくさんあります。

カウンセリングのお仕事では、非日常の空間なので、私情は脇においておくことができます。しかし、日常生活はやはり別で、日々忍耐を維持することは不可能です。(聖母マリアのようになれたらどれだけ良いかと思います。)

「感情って何のためにあるんだろう?」「どのようなものがあるのだろう?」その理解ができれば、もしかすると、今感じている感情、あの時辛かった感情はそういう意味があるんだ、そういうことで自分を助けてくれているのかもしれない、という理解ができると、少し気持ちが楽になるかもしれません。

目次

感情は何のためにある?

感情については、時を遡り、19世紀のイギリスの自然科学者ダーウィンから始まり、心理学では愛着理論で有名なボウルビー、人間の表情から感情の分類を試みたエクマン、最近では「無意識の脳ー身体と情動と感情の神秘」の著者でもあり、脳と感情の関係を研究したダマシオなど、多くの研究者が感情についてその機能を探ってきました。

ニューヨークでカウンセラーとして活躍されている花川ゆう子さんは、AEDP(Acccelerated Experiental Dynamic Psychotherapy;加速化体験力動療法)を用いたカウンセリングをされているようです。そのノウハウや理論をまとめた著書「感情を癒す実践メソッド」の中で、感情の役割について先人の研究について引用されています。

 感情とは環境と自己の間を仲介するものであり、また情報源であり、個人的な意味づけ、自己の真正性や躍動感を支えるものなのです(Fosha,2000)。また感情は意欲の基となり、行動をオーガナイズする役目もあり、自己感の根源となるものでもあります(Craig,2015)。

 感情がどれくらい個人の人生に影響を与えるかというと、こんな報告があります(Damasio,1994)。事故で感情へのアクセスを失ってしまった人たちは、感情の生き生きとした機敏を味わえなくなるだけではなく、判断や決断ができなくなり、対人関係でうまく機能することができなくなるそうです。つまり、自己感と他者感がひどく破損してしまう、ということなのです。

花川ゆう子(2020)「感情を癒す実践メソッド」p46より

ここからわかるように、感情は人の行動の方向を定めるための源になったり、人と人とをつなげるためのエッセンス、さらには指針にもなりうるものなのだということが分かります。

「あの人何となくイライラさせられるから、あまり近づかないでおこう」だとか、「これを着て出かけると何だかうきうきしそうだ」とか、人の行動は、そういった日々の小さな感情体験の積み重ねなのだと考えられます。

ひどいトラウマによって感情にアクセスできなくなってしまった人は、感情のプロセス(感情を味わい、表現すること)が苦手なだけでなく、感情から来る情報源をキャッチすることができず、適応的行動をとりにくくなり、 生き生きとした活力がなくなり、深い真正性ある他者との関わりができなくなってしまうことも報告されています(Fosha,2000,2003)。

花川ゆう子(2020)「感情を癒す実践メソッド」p46,47より

トラウマによってなぜ感情にアクセスできなくなってしまうのか、ということについては、また「ポリヴェーガル理論」についても説明を加えながらお話したいと思っていますが、実は、感情は私たちが環境に適応するために行動の選択や判断をしていくための情報源となり得るし、論理的に判断、選択、行動を組み立てる役割を持っていると言えます。

でも、「あの人は感情的だ」といった表現から見られるように、感情は論理的ではないと見られがちです。それはなぜなのか。これは、感情の種類によるもののようです。

感情と感情的との違いとは?

感情は私たちが環境へ適応することを助けるために、どのような選択や判断をすると良いのか、どのように人と関係を築くと安全かといったことを導いてくれるための情報源、またそれらを論理的に組み立ててくれるような役割を持っていると考えられます。

一方で、「感情的」といったネガティブなイメージをも含む言葉もあり、論理的ではなく暴走する一面も有するようなものと、一般的に考えられると思います。環境適応に役立つ「感情」とネガティブな意味合いのある「感情的」との違いは、何があるのでしょうか。

「コア感情」と「防衛感情」という2つの感情の種類の分け方がこの違いを理解するのに役立つかもしれません。

 コア感情は、もっと正確には「コア感情体験」と言われます。その人のまさに「中核」である自己感と密接に関係している、真で純粋な混じりけのない、のびやかに出てくる種類の感情を指します。そしてそのようなコア感情に触れると私たちはバイタリティを感じ、エネルギーが出てきて、自分の真正性を体験し、「これが偽りのない自分なんだ」という自己感を抱くことができます。

(中略)

 自分の感情と自己感が一致したとき、それが痛い感情だったとしても、それを味わうことができると、清々しかったり、爽やかだったり、すっきりした感じが伴います。

花川ゆう子(2020)「感情を癒す実践メソッド」 p48,49より

対する「防衛感情」はどのようなものでしょうか。

 防衛感情は、防衛的に使われている感情を指します。つまり何か他の感情を感じないために使われている感情を防衛感情と呼ぶのです。

 ですから、どんな種類の感情でも防衛感情として使われる可能性があるわけです。

 怒りが防衛感情であることもありますし、悲しみが防衛的に使われているならば防衛感情になることもあります。 

花川ゆう子(2020)「感情を癒す実践メソッド」p51より

これだけでは、「感情」と「感情的」の違いがはっきりとはわかりません。「コア感情」と「防衛感情】の2つの感情それぞれの特徴について、以下、見ていきたいと思います。

コア感情の特徴とは?

AEDPでは、コア感情に近づき、とどまってその感情を感じきることで、変容を促進することができると考えられています。コア感情の特徴について、以下のようにまとめられています。

コア感情の特徴として、その感情に触れて体験したとき、①何らかの変容が起こる、②身体で感じられる、またははっきりとしたイメージが喚起される、③はっきりとした始まり、ピーク、終わりがある(Stwen,1985)、④プロセスしたとき適応行動傾向が出てくる、などがあります。

(中略)

こうした形の感情が終結した後,何かしらポジティブな体験が生まれて来ます。「ほっとした感じ」や、「落ちついた感じ」や、「すっきりした感じ」「軽くなった感じ」などです。これらのマーカーを「ポスト・ブレークスルー感情」と呼びます。(中略)ネガティブだった感情が、それを感じ切ることによって、別のポジティブな感情体験へと変容を遂げるのです。

 また、感情をきちんと感じきると、何かしらの新しい適応的行動が自然と浮かび上がってきます。

 感情の兆し、ピーク、終結、そしてポスト・ブレークスルー感情、新しい適応的行動傾向、このシークエンスが感情の変容プロセスです。

花川ゆう子(2020)「感情を癒す実践メソッド」p50より

私は、これを読んでいて思い出したエピソードがありました。その日、私はとてももやもやとした気分で3人いる真ん中の子の寝かしつけを車でしようとドライブに出かけたところでした。子どもがうとうととしたところで、そのモヤモヤした気持ちを何とかしたくて、音楽を聴くことにしました。

(選んだ曲は星野源の「アイデア」でした。お好きな方いますか??)

聞いていると、何だかどうしようもなく胸がきゅーっとなり、泣きたい気もちになりました。子どもも寝たし、いいや泣いちゃえ、と何故か号泣。泣ききった後は、とてもすっきりとして、ほっとした感覚が身体にじんわりと感じられました。その後、自宅に戻りました。

その感情が何だったのかはっきりとはわかりませんが、遠く離れた実家のイメージなどは頭に浮かんだ気がするので、もしかしたらコロナの影響で帰省がしばらく出来ない中、少し寂しさも感じていたのかもしれませんね。そこにリズムや星野源の声の感じに身体が共鳴し、感情が出てきたのかもしれません。

モヤモヤ感情が「感情の兆し」、星野源を聞くという行動の選択をして、号泣という感情の「ピーク」を迎え、ポスト・ブレークスルー感情を感じ、自分自身が感じていることを振り返ることができました。その後実家に連絡をしたかしていないかは覚えていませんが、コア感情は自分が何をすると良いのかが見えてくるきっかけになることが理解できます。

また、コア感情にはいくつかの種類が含まれるようです。

 まず、「カテゴリー感情」という恐怖、悲しみ、喜び・幸せ感、怒り、嫌悪、軽蔑などの種類です。カテゴリー感情は外界の出来事に対する反応を指します。

 またコア感情にはカテゴリー感情だけでなく、「対自感情」「関係性的感情」というものも含まれます。対自感情というのは自分に対する反応の感情、関係性的感情というのは関係性に対する感情です。

 対自コア感情には、自分に対する誇り、うれしさ、自尊の気もち、自己に対する愛情、慈しみなどがあります。

 関係性的コア感情には、関係性に対する自分なりの読み、それに基づく感情的反応があります。関係性的コア感情の例として、他者への愛着、愛情、尊敬、信頼、憧れなどがあります。

花川ゆう子(2020)「感情を癒す実践メソッド」p49,50より

私の上のエピソードの例でいうと、おそらく関係性的コア感情の中での寂しさというカテゴリー感情になるのでしょうか。自分に対する感情、関係性に対する感情というのは、日常生活の中でもとても分かりやすい物に感じられます。

防衛感情の特徴とは?

それでは、コア感情と対峙する「防衛感情」の特徴とは、どのようなものがあるのでしょうか。

①はっきりとした感情のピークと終結がない、②感情にフォーカスしても感情のプロセスがされずに同じところをぐるぐる回っている感じがする、③感情の変容が起こらずに一カ所に足踏みしている感じがする、④過度の自己攻撃のため行動を抑制する、⑤感情に焦点を当てても適応的行動傾向が現れない、などです。

(中略)

感情的な状態というのは、本人がその感情に対する主導権を握っておらず、感情に振り回されてしまっている状態です。「あの人は感情的で話ができない」と言われるときには、防衛感情がを感情的に出してしまっている状態だと考えられます。

花川ゆう子(2020)「感情を癒す実践メソッド」p52より

私はこれを読んで、「クレーマー」や「パワハラをする人」が頭に浮かびました。こういった人々については、おそらく自分を否定される(思い通りに行かないことを含めて)ことに対して、その人の中の劣等感に火が付き、「怒り」という感情表出を通して他者にぶつけるという特徴があるように思います。

ここで、怒りにフォーカスして、うんうん、と怒りを表出させ続けることは意味をなさず、その人の劣等感を埋める形(代わりの商品を渡して他の人や店側の優位に立たせる)での関わりをしないことには、解決しないように思います。

表面的に見えている感情の下に違う感情を防衛している、という「防衛感情」。いろいろな場面で「感情的な人」を理解する上でも、自分の中でコントロール出来ない感情を理解する上でも、とても役に立つ考え方ではないでしょうか。

それぞれの感情の役割について

感情にはいろいろなものがあり、不快なものであってもそれぞれに役割があることについて、ここまでみてきました。カテゴリー感情と感覚(感情よりもさらに複雑な要素)やその主な機能はどのようなものがあるのでしょうか。人の行動や精神衛生上重要な感情について取り上げてみましょう。

  • 恐怖

恐怖には、私たちを守る役割があります。恐怖をきっかけにして、身体は危険に対する防衛反応を作動させます。恐怖反応によって、自動的に安全が維持されます。つまり、“頭”で考える前に、確実に脅威からのがれることができるのです。恐怖が今起こっている目の前の状況に見合うものであれば、恐怖は重要なリソースとして機能します。

 恐怖が常に何に対しても引き出されてしまうようなときには問題になります。(中略)“永続的な警戒状態”に導かれ、常に緊張状態で、リラックスして心を休めることができなくなってしまうのです。

アナベル・ゴンザレス著、大河原美以訳「複雑性トラウマ・愛着・解離がわかる本」p33より

 恐怖は基本的な感情であり、恐怖があることで命を守ることにつながります。問題になるのは、何にたいしても恐怖を感じる状態になること。恐怖反応は通常、恐怖対象(例えば、クマなどの獣、事故の瞬間など命や安全を脅かす物や状況)と直面した後、それが過ぎ去ってから出て来ます。

恐怖のその瞬間はどちらかというと固まって、フリーズしてしまう状態が多いでしょう。恐怖対象が過ぎ去り、「もう安全だ」と感じられてから、心拍数が上昇し、汗をかき、「危険と遭遇した」という記憶として学習されるのです。

しかし、これが過去にならず、「危険と遭遇している」状況が続いていると認識した生き物は常にフリーズし、緊張しリラックス出来ない状態となり、さまざまな症状として苦痛を伴い続けることが問題となります。

  • 怒り

怒りは、悪く思われがちな感情ですが、生存本能に深く関わっています。怒りと恐怖は、本能レベルで第1に優先される積極的な二大防衛反応なのです。もし相手が自分より強ければ、逃走反応は“身体”によって自動的にブロックされます。犬は猫と戦うことができますが、ライオンからは逃げるでしょう。怒りは「脅威と戦うことを表明する」意味をもつ感情ですが、内面に閉じ込められてしまうとさまざまな症状を引き起こします。

(中略)

健全な方法で放出されない怒りは、自責や自己否定になって自分のもとへ戻って来ます。怒りを感じたり表明したりすることを自分に対して許すことができないと、さらに脆弱になり、「いやだ」と言えなかったり、「自分に必要なものを求める」ことができなくなったりします。このことは悪循環となって、封印された怒りを増幅させてしまいます。

アナベル・ゴンザレス著、大河原美以訳「複雑性トラウマ・愛着・解離がわかる本」p33,34より

 自分より強い相手ではなく、戦える相手に対して怒りが生じるということについて、私も「なるほど」と思いました。以前読んだ本のなかに、猫は人間に対してお腹を見せて甘えるという行動をとるけれど、ウサギはそれをしないと書かれてたことを思い出しました。

それは、猫は肉食動物であり生来的に狩りをする動物であるので、尖った爪と牙をもっていて、危険が迫るとすぐに攻撃に転じることができるからであり、対してウサギは尖った爪も牙もなく、補食される対象であり、攻撃するという選択を持ち合わせていないからだそうです。

怒りも、同様な機能を持っていて、こちらの武器だったり強みだったり、何か対抗することができるものがあれば出てくる必要な感情であり、もしこれらが封印されてしまうのであれば、自分は何ものにも対抗できず弱い存在だと感じ続けることになります。健全に怒りを感じ、適切に表出することは生きていく上で非常に大切なことが理解できます。

  • 愛情

愛情は、基本的な感情よりもさらに複雑です。他者と情緒的な関係性を構築しようとする傾向は、人間にとっては生来的なものです。(中略)ポジティヴ感情を感じることは、ネガティヴ感情を感じることよりさらに難しいということがありえます。ポジティヴ感情は、幼少期の親との相互作用を通して最初に経験します。それは、親と一緒に笑ったり遊んだりすることを通して愛情を共有する関わりです。(中略)子どものときにこれらの感情が不足していたら、その後大人になったときに愛情に対する渇望を感じて、現在の関係性において妥当の物では満足できず「過去にもてなかったものすべて」を与えるように求めてしまうかもしれません。このことが過剰な反応を導き、人間関係上の多くの問題を生み出します。

アナベル・ゴンザレス著、大河原美以訳「複雑性トラウマ・愛着・解離がわかる本」p34,35より
  • 悲しみ

人間は、生来、社会的動物です。集団の中で生活し、関係性のネットワークを通してつながりあいます。子ども達は何年にもわたって養育者を必要とし、それゆえに早期の愛着の絆は健全に育つために欠かすことができません。

 このつながりは、愛情を感じている人の喪失に直面したときに経験する感情、悲しみによってさらに高められます。人や物を失ったときに悲しみを感じなかったとしたら、人や物に愛着を求めることもないでしょう。(中略)別の言い方をすると、それは関係をつなぐ“糊”のようなものなのです。

アナベル・ゴンザレス著、大河原美以訳「複雑性トラウマ・愛着・解離がわかる本」p35

 悲しみは、基本的感情の一つと理解していましたが、人や物の「喪失」とつながる感情、つまり「関係性的感情」に分けられるようです。愛情や愛着を強めるために必要なものであり、孤立すれば周囲の人との関係の「喪失」だから悲しい、理解を「喪失」した時、理解されない悲しみといった形で、無形の喪失は日常生活特に、対人関係においてにおびただしいほどあふれています。

理解されるために、行動にうつすかもしれないし、孤立しないように人とつながろうとするかもしれない。悲しみがうまく流れず、せき止められている状態は問題であり、関係が断たれて行くことになります。悲しみが健全に適切に働けば、人など愛着対象とつながるエネルギーになりうります。

  • 喜び

喜びはエネルギーです。喜びは、希望をもつことと意欲的な取り組みに関係します。良い時間をもつことは、食事と同じ暗い必要なことで、ある種の感情的な“栄養”であると言えます。

 喜びは明らかにポジティヴな性質をもつものであるにもかかわらず、すべての人がこの感情を経験することを心地よく感じるわけではありません。

(中略)

 自分の時間は、有用な仕事や他者の問題を支援するためにのみ使うものだと考えている人たちがいます。目的もなく単に自分の楽しみのために何かをすることには、罪悪感や不快が生じてしまうので、自分にそれを許すことが出来ないのです。

アナベル・ゴンザレス著、大河原美以訳「複雑性トラウマ・愛着・解離がわかる本」p36より

 喜びも適切であるものと、自分を苦しめるものがあるようです。我々、カウンセラー業をしている臨床心理士、公認心理師の中にも、「ケアすること」を軸に実は苦しい人も多いかと思います。看護師さん、社会福祉士さん、介護福祉士さんなど、何かしら人をケアする職業の人には非常に多いと言われています。

これは、育ちが多いに関係していて、例えば、幼いときに両親が共働きで忙しい、または片親だったり病気がちな親で、兄弟の世話を担っていたというような場合、ケアすることが生活の中心であり、自分の喜びは二の次、という人であれば、このような感じ方をすることは多いと思われます。

そういった人は、何が楽しみなのか、何をすることが喜びなのか、といった感情になかなか気づけないのですが、ひとたびそれを理解し、感じることを許すことができれば、視界が広がり色を持った世界が見えてくるかもしれません。1人で見つけだすことができなければ、他の人と一緒に何かをしてみる、世話をしないといういつもと違う行動をとることが大切です。

  • 罪悪感

 罪悪感は、基本的な感情というより、むしろ感覚的なものです。(中略)健全な罪悪感は、責任感と呼ばれ、失敗から学び、失敗を正すことを可能にします。罪悪感が適切に機能するためには、その大きさが状況に見合った物でなければなりません。もし罪悪感が蓄積された状態にあるなら、自分よりもむしろ他者に重い責任がある状況であっても、必要以上の罪悪感を抱えてしまうことになるでしょう。このようなときには、「失敗から学ぶ」ことができず、絶望して罪悪感を封印してしまうことになります。

(中略)

 健全な罪悪感とは、傷口を痛めつけるべき物ではなく、むしろ、未来の決定を改善するために、失敗と経験から学ぶことができるようにさせるものです。

アナベル・ゴンザレス著、大河原美以訳「複雑性トラウマ・愛着・解離がわかる本」p36,37より

 罪悪感も基本的な感情というよりも、「対自感情」と「関係性的感情」の間にある感覚でしょうか。責任は人との間の営みで生じることであるし、失敗を正そうとする心の働きは「間違いを許せない自分」に対する感情です。人間ならではの、高次の感情です。

必要以上の罪悪感とはどのようなものでしょうか。例えば、6歳の子どもの頃にきょうだいで留守番をしていて、4歳のきょうだいが違う部屋で火遊びをしていて火傷をしたということがあったとしましょう。それは、自分のせいでしょうか。いくら親が「おにいさんなんだから」「おねえさんなんだから」ちゃんと見てあげなくてはいけないでしょう!と言ったとしても、6歳だったあなたに責任はありません。

子どもの頃のこういった罪悪感があるならば、大人になったあなたや少し成長してこれを読んでいる中学生や高校生、大学生のあなたが、そっと子どもの自分を抱きしめてあげられると良いな、と切に思います。自分の能力や責任が届かない範囲での失敗で罪悪感を抱くことはとても不健康であり、苦しいことなのです。

  • 羞恥心

 羞恥心とは、自分が所属する集団に適応することを促す感情です。羞恥心は、不適切と認識されるようなことや他者の非難を受けるかもしれないことをしたときに感じます。羞恥心の感覚がなかったら、そのまま不適切なふるまいを続けてしまうかもしれませんし、自分のふるまいが他者に与えている影響に無頓着になってしまうかもしれません。

(中略)羞恥心という感覚の作用は、恐怖や不安と同様です。はじめての状況では、身体と注意の感覚を活性化させるので、それは強くなり、反応が鋭くなりますが、反応が繰り返されてなじんでくると、弱まってきます。羞恥心は、自分の新たなふるまいが今いる社会的文脈に合うよう調整するために存在しているものなので、何らかのはじめての場面に直面したときに生じます。

 問題は、羞恥心を苦痛に感じて回避しようとするときに生じます。なぜなら、その感覚が弱まり消えていくことを導く“慣れ”のプロセスが起こらないからです。羞恥心の感覚は、内部に蓄積するとどんどん強まってしまい、経験を処理する能力をブロックしてしまいます。そうなると、適応そのものに強い影響を与えてしまうかもしれません。

アナベル・ゴンザレス著、大河原美以訳「複雑性トラウマ・愛着・解離がわかる本」p37,38より

「恥ずかしい」という感覚、感情ですが、これも「関係性的感情」寄りだけれど、「対自感情」との間にある感情だと思います。人には「自意識」と呼ばれる感情が2歳になる頃には既に芽生えると言われています。

「ルージュテスト」と呼ばれる有名な実験がありますが、鼻の頭に口紅を塗った状態で鏡の前に来ると、0歳と1歳くらいだと、鏡に写っているのは自分だと認識できず、他人に振る舞うように鏡を見ています。これが2歳くらいになると、鏡の中の自分を見て、実際の自分の鼻を拭う行動をとるようになります。

自分という存在を意識していないと「恥ずかしい」、「いつもと違う」という感覚は出てこないため、「羞恥心」とは関係性の中に自分を置くという状況下において発生する、とても高次の感情だと考えられます。しかも、この羞恥心に対する身体の反応が恐怖や心配と同様であるから、人間は本当に関係性の中に生きる生き物だと感じさせられますよね。

羞恥心を感じやすい人にとっては試練のようですが、これもどうも慣れるという「学習」でしか乗り越えられる方法はないようです。

  • 心配

 これから起こるかもしれない問題を予測して心配することは、油断せずに計画的に問題を防ぐ上で有用です。起こりうるさまざまな状況に対して、その解決方法をイメージしておくこともできます。(中略)

 しかし、心配が憂慮に終わり、最悪の結果だけを想像するようになると、問題が生じます。(中略)そうなると、心は解決策を見つけようともせずに、「解決策は何もない」と思い込みます。このようなとき、心配と憂慮は「問題に備えて防ぐ」という機能を果たさず、苦悩だけをもたらします。(中略)

 健全な心配は「判断力」であるともいえ、実際のところ必要な物です。(中略)もし健全な心配がなければ、対応能力を激減させてしまうのです。ある程度の心配があるからこそ予防策を講じることができるので、心配は価値のあるリソースです。

アナベル・ゴンザレス著、大河原美以訳「複雑性トラウマ・愛着・解離がわかる本」p38より

 私は、心配性な癖にのんびりやなので心配の機能については、とてもよくわかります。心配のアラームが発動されるのは、私の場合は、テスト前だったり、職員研修を任された時などなど、慣れない状況下において人前に立ってパフォーマンスをしなければ行けない時です。(そのくせ「まだ時間がある」と1週間前でも平気でマンガを読んだりしてしまうのです…)

パフォーマンスが最善に終わるように計画していくために、役立つのが「心配」の機能ですが、例えばこれが「最善」ではなく、「完璧に」という目的に変わればどうでしょう。「完璧に」というのは、人によってとらえ方が変わってくるため、いくら穴をつぶそうと思っても、つぶせるものではありません。

私はこの落とし穴に大学4年生の卒論の時期にハマりました。引用文献を探る中で、自分の興味関心の内容に必要な文献を絞って当たればいいものの、関係しているものすべてを読み尽くさねば、という強迫観念にとらわれて、それはそれは心配で心配でたまらず、指導教官からの指導に怯えてストレスフルな生活を送ったことを覚えています。

健全に、ほどほどに「心配」を感じられれば、こんな有能なお助け感情はいないと思います。心配で仕方がないとき、少し振り返って、求めすぎていないか確認してみましょう。

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